先日、スパロボのIFルートについて下記記事を書きました。
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【原作は原作】スパロボはif展開による救済があってもいいです【スパロボはスパロボ】
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スパロボという「夢」の中でくらい、原作とは違う展開があってもいいんじゃないかという内容です。
この原作と違う展開には「本来なら死亡するキャラクターが生存する」も含まれていますが…果たしてそれは「救済」なのでしょうか?
死んだから不幸なのか?
よく、原作で死亡したキャラクターが生存することを「救済」という人がいます。
アニメ放映中にキャラが死亡した時、Twitterで検索をかけると「スパロボで救済はよ」みたいなツイートをよく見かけるんですね。
これを見るたびに、ちょっとモヤモヤするんですよ。
なぜなら、「死」そのものを不幸な出来事だと思っていないからです。
原作で死んだキャラクターをスパロボで「救済」してほしいって声を聞くたびにモヤモヤする
なぜなら、彼らは「死」を悲観的に捉えておらず、誇り高く散っていったから「自分の死を以て未来へと希望をつなぐ」
鬼滅の刃で煉獄さんの生き様を見て改めて感じた pic.twitter.com/e3FJ7r8PLT
— スパロボ道@スパロボブログ (@become_onigiri) October 30, 2020
煉獄さんの例を出します。
まず、煉獄さんは死について否定的ではありません。
それがわかるのが下記のセリフです。
「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ。
老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく尊いのだ」
「死があるからこそ人は美しい」
死を含めて人間を愛しているという価値観が伝わってきます。
煉獄さんは上弦の参・猗窩座(あかざ)との戦いで死亡します。
しかし、自分が死ぬことに対して悲観的ではありませんでした。
「俺がここで死ぬことは気にするな 柱ならば後輩の盾となるのは当然だ 柱ならば誰であっても同じことをする 若い芽は摘ませない」
このセリフからもわかる通り、煉獄さんは自分の死を嘆きながらその生涯を終えるのではなく、誇り高く散っていったことが伺えます。
煉獄さんは「救われなかった」のか?
ここで本題に戻ります。
果たして、煉獄さんが生存することは「救済」になるのでしょうか?
生存を「救済」と表現するということは、煉獄さんは「救われなかった」のだと捉えているのだと思います。
死の間際、母から「立派にできましたよ」と褒められ、満足気に散っていった煉獄の兄貴は「救われなかった」のでしょうか?
私は、そんなことないと思います。
このように、必ずしも「死」が不幸なものではないという例もあります。
スパロボにおける「生存」ルート
別に、満足気に散っていったんだから生存ルートなんていらないだろ!とは思ってませんよ。
そりゃスパロボという夢でくらい生きててほしいと思うし、その「もしも」を楽しみたいですよ。
ただ、「死」が後のキャラクターの成長に繋がっていたりするとそれも叶わないことがあります。
例えば、グレンラガンのカミナやキタンです。
彼らの生存ルートがないのは、その「死」が物語にとって極めて重要であり、変えてはならない生き様だからだと思います。
グレンラガン参戦に当たって「ここは絶対に変えないでほしい」と中島かずきさんに言われたのは彼らの死だと思います。
でもその一方で、中島さんから「こことここは原作から絶対に変えないでほしい」という要望もあったんです。
それが何なのか、あえて言いませんけど。
IF展開がオッケーなところもあるけれども、絶対に守らなければいけないところも、キャラクターを扱う以上は当然ありますから。
寺田P×奈須きのこ対談より
彼らが「生存」することは「救済」とは言わないのでしょうね。
まとめ:「生存が救済」であるとは限らない
今回、煉獄さんの死を振り返ってみて「生存したら救済」というわけではないことがわかりました。
煉獄さんはもちろんだけど、カミナやグラハムみたいに「未来を切り開く偉大な死」を遂げるキャラってかっこいいよね…。
グラハムは生きてたけど!